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  • 榎本計介(えのさん)について

ごあいさつ

榎本計介(えのさん)
榎本計介(えのさん)

 初めまして、榎本計介です。
中には初めましてじゃない方もいらっしゃるかもしれませんね。

お久しぶりです、榎本計介です!(笑)

 私は経営の最前線から退いて以来、後進の育成を行う立場としてコンサルタントやマネジメントを教えるスクール「えのさん流MBA」や「経腕道場」を開講、さらに私塾「えのさん塾」を始動させるなど様々な取り組みを行ってきました。

 これらは自らの経験をより多くのビジネスパーソンに提供しようと始めたものだったのですが…実は私自身が多くの学びを得る結果になりました。

 こうした"場"を提供することで多くの仲間と出会うことができ、成長機会にも恵まれて幸せな生活をおくっています。(相変わらずじっとしてはいませんが)

 ちなみに、私は周囲の仲間達に「えのさん」と呼ばれています。
実は、私がメイン講師を務めるえのさん流MBAなどでもニックネームで呼び合うことにしています。これは、年齢や企業規模、役職などをリセットして、フラットな人間関係を築くための工夫です。
ですから、このホームページでも、ニックネームの「えのさん」として、皆さんとフラットな関係を築いていきたいと考えています。

榎本計介年表

私“えのさん”がどんな人間なのか、その半生を簡単にまとめましたのでご覧下さい。
波瀾万丈、色んなことを経験しました。
現在はその経験を生かして、現在のコンサルタント業を行っています。
詳細はホームページで連載している『太陽のような愛』をご覧下さい。

年表のタイトルをクリックすると詳細をご覧頂けます。

1955年(0歳)

えのさん誕生

和歌山県新宮市でくだもの屋を営む榎本家の長男として生まれる。
父方の祖父が野菜の行商で商売を興し、八百屋、よろず屋と大きくしていったそうだ。
その後、父がくだもの屋を暖簾分けで引き継いだのが榎本青果店になった。これがえのさんの実家だ。

1963年~1967年(8歳~14歳)

商売の原点

小学3年生になったチビえのさんは毎日店番をすることになる。
そこで裏の飲み屋のママやホステスさんに可愛がってもらう。
この店番は中学2年くらいまで続き、私の商売の原点となった。

1971年~1977年(16歳~22歳)

学生時代

高校は「普通じゃ面白くない」と国立鳥羽高等商船学校へ。
見事合格するも、全寮制と知りあっさり辞退し、普通の選択肢だった新宮高校へ入学。
文化祭では映画を自作して上映。もちろん新宮高校史上初。
毎回満員の大盛況で、利益を出して打ち上げ。
大学は普通じゃない選択を、と東海大学航海工学科に。船乗りは給料が高いし、海の上だからお金も使わなくて済む。若いうちにたくさん稼いでくだもの屋を継ごうと考えた。
大学の頃は、麻雀放浪記の影響もあって、麻雀にはドップリはまった。
放浪記に登場する出目徳に憧れ、積み込みの練習に明け暮れたりもした。
その情熱は今の経営に匹敵するほどのものだった。

1977年(22歳)

社会人

エポック社グループの卸部門をになう日本玩具に入社。
玩具問屋のセールスマンとして、名古屋営業所に配属が決まった。
「どうせやるなら社長を目指そう」と昼夜を問わずよく働いた。
日曜も会社に出ては在庫をノートに書いて商品を覚えたり。
ファンシー雑貨を扱うことになったときは、ジーパンにTシャツ、スニーカーと髭がファンシー雑貨営業マンのスタイルだと言われ、似合わない髭にはいたことの無いジーパン、そしてパンチパーマで仕事をするようになった。

1979年~1983年(24歳~28歳)

結婚

新宮の自動車学校で家内と知り合い、就職して二年で結婚。
一年後に長女が生まれ、その二年後に家内が次女を妊娠した。
その頃、母から借金の依頼がきた…そう、実家のくだもの屋が火の車だったのだ…

1983年(28歳)

榎本青果店の危機

町の人口減少に伴い、母親が実質運営していたくだもの屋が傾き始める。
名古屋と新宮の実家を往復する日々が続いた。
その頃には、年商3千万、粗利25%の小さなくだもの屋の借金は6千万にふくれあがり、年間利息だけでも600万にのぼった。

考えた末に、くだもの屋の再建は諦め、潰れた後に両親が食っていけるだけのおもちゃ屋を新宮に作ってあげることにした。
それは、一部の商品を定価の40%以下で仕入れられる特別なルートを知っていたことと、当時は定価販売が当たり前だったおもちゃ屋業界で安売りは強いということを知っていたからだ。

1984年(29歳)

一か八かの出店

お金の無かった私は全借金で資金を集め、一か八かの出店という大勝負に出た。
「どうせ前に行くなら、成功を信じて突き進むぞ。命までは取られんわ。」
10坪のおもちゃ屋「キャッツアイ」は強烈な安売り価格をつけ、開店一時間で売上100万円をあげる脅威の店舗になった。
しかし、安売り禁止の業界において、新宮のお掟破りは一日にして知れ渡る。本来、それを取り締まるメーカー系列の社員であったえのさんは会社を辞めざるを得なくなり退社、SK商事を個人開業した。
お店の方は安売り路線爆進するも薄利が続き、まだまだ余談を許さない状況だった。
生き残るために試行錯誤し、テキ屋をしたり、おもちゃ屋におもちゃ以外のものを卸たりもした。
そのことが、その後の経営にも生きる商売の知恵をたくさん得ることにつながった。

1985年(30歳)

えのもと青果店再建の奇跡

実家のくだもの屋を再建は難航していた。
実家の土地を売却しようにも築30年以上のボロ屋が付いているからだろうか、値がつかない。かと言って家を解体するにも解体費用も出ない…まさに八方ふさがり。
そんなとき、奇跡!?が起こる。
実家が火事になったのだ!
えのさんがとっさに確認したのは、「おかあちゃん、保険は入っとるか?」だった。
保険がおりれば借金は半分になる!さらに土地は解体費用もなしに更地に戻る!
土地を売却すれば借金はなくなる!
これ以外に助かる方法は無かった。まさに奇跡の再建だった。

1985年~1990年(30歳~35歳)

商売順調、売上50倍!

ファミコンが台頭してきたことが追い風となって、「バッタ屋」として事業は拡大。
売上はたった6年で50倍の50億を超えるまでになっていた。
さらなる拡大戦略実行のため増資し、株式会社ヴァンクスを設立。
絶好調の私には盲目になり、上場を目指し、無謀な投資に走り始めた…

1991年~1996年(36歳~41歳)

4億円の資金ショートと、待ったなしの再建スタート

短期成長の裏には、儲けた金は全て注ぎの投資につぎ込んでいるギリギリの経営。
まさに博打そのもの。博打で勝ち続けることは出来ない、いつかは外れるときがくる。
それが現実になった…4億円の資金ショート。
騙し騙し続けてきた資金繰りも万策尽きた。どう倒れるのがベストかをシュミレーションしたりもした。
過剰な投資以外に世の中の相場が崩れたことが大きな原因だった。
確立したビジネスモデルがあっという間にポピュラーな手法になっていたのだ。
それにより、我社の何倍も大きな同業がファミコンの藻屑と消えた。
全てを覚悟の上で、借金の棚上げを依頼するための再建計画を持って取引先を回った。
結果、取引先の温かい支援のおかげで九死に一生を得ることになる。
4億もの借金を抱えて待ったなしの再建が始まった。

おもちゃ屋から前代未聞の大型ファミコンショップ「magical」へ転身。
中古商品の買取と販売も始めたところ、中古の異常な利益率がお店に大きな貢献を果たしてくれた。
この成功は昔ながらのおもちゃ屋をも救った。当時大手玩具チェーンの台頭で追い込まれていた名古屋の有力玩具店オーナー達が、VANXの傘下に入ったのだ。
紆余曲折はあったが、苦しみながらも絶滅に瀕した昔からのおもちゃ屋を束ね、我社はたった一社ゲーム業界に勝ち残った。
そして、4億円の借金は3年で無事完済することができた。

1997年(42歳)

完璧なる合併

再建を果たし、余裕はできたが油断はできない。
今度危機に陥るとするならどんな場合かを考えていた。その要因は二つ。
一つはテレビゲームが売れなくなたとき、もう一つは卸売業が必要なくなった時だ。
安全性を確保する対策は、調子が良いうちに次の商材を開拓すること、つまり小売業へのシフトが必要だった。
そんなとき、経営指針書を作る勉強会「豊友会」で本屋を経営する株式会社しーがるの近藤さんと出会う。
「合併しませんか?」と話のついでに冗談で声をかけると、「いいよ、で、いつ?」
冗談のようなやり取りから、本屋の店名「いまじん」を社名にした合併が進み、株式会社いまじんが誕生した。

2000年(45歳)

変化に備える

合併がそれなりの成果を生み出した頃、通信・インターネット・携帯の多機能等の波がすぐそこにやってきていた。
いまじんが取り扱うビデオやCD、ゲームなどは、近い将来インターネットを介してダウンロード購入することができるようになる。
そんな風に変わるかどうかどうかはわからないが、変わってもいいような体制を整えるのが経営者としての責務だ。
変化に備える準備の一つとして、資金の調達があった。
その当時、自己資本は6億円。それでは心もとない。
いまじんが子会社にあるとシナジーが生まれ、なおかついまじんの必要資金くらいは問題なく出せる企業。
中部圏ではエイデン以外になかった。
証券会社を仲介に、エイデンに第三者割当増資を受け入れてもらえることになり、いまじんの自己資本は12億になった。

2004年(49歳)

後進に託す

ゲーム業界はプレステ2の独壇場。セガの衰退と共にバッタ屋は絶滅し、任天堂もぱっとしない。
そんな状況下、中小のゲームチェーンはどんどん閉店し、ヤマダ電機を代表する家電量販店が台頭し始めた。
卸売業から小売業に転換できたばかりだったが、小売業にも限界がやってきていると感じていた。
中部圏だけででも勝ち残るには、超大型店を建てるしか方法はない。
それには一店舗8億円の投資が必要だった。
新規増資をバローに引き受けてもらい、自己資本は20億を超え、資金的には盤石の体制を築く。

その頃から「小売経験のない人間(えのさん)が社長をやっていてはいけない」と感じるようになっていた。
そこで、卸、小売の現場を経験し、双方で実績をあげていた、当時幹部社員の林 昭宏を後継社長にすることを決めた。
新社長である彼を中心に大型店舗の計画を推進し、いまじんを引っ張っていってもらおうと、全てを託した。

2005年(50歳)

50回目の誕生日

2005年5月3日、えのさんの50回目の誕生日。
大勢の仲間が祝ってくれた。
場所は、名古屋BlueNote。皆がミュージカル「CATS」の猫を模した姿に、異常なクオリティでコスプレ。
300人の宴が異様な空間を演出していた。
家族、社員、友人、弟子に囲まれ、えのさんは人生最高の瞬間を迎えていた。

引退して何をしようかと考えていたところ、友人の会社の顧問を依頼され、おもしろそうなので引き受けたら、次々と顧問先が増えてしまい、結果、コンサルタントになってしまう。
同時に、講議好きが高じて、経営者育成セミナーを行う。それが、整備され「えのさん流MBA」セミナーになる。

2009年(54歳)

えのさん塾を開講

以前からやってみたかった経営哲学を学び極めるための合宿形式の塾、「えのさん塾」第1期を開講。
生涯の仕事にしたいと思った。

2010年(55歳)

『太陽のような愛』を出版

えのさん塾での学びと自身の半生をまとめた『太陽のような愛』を出版。
内容はこちらでご覧頂けます。

趣味・ライフワークなど

2010年よりトライアスロンに挑戦中。
2009年まではマラソンで満足!?していましたが、仲間たちに誘われスイムを始め、バイクを始め(笑)
おかげで体系もスリムで健康的になってきました。
えのさん流MBAえのさん塾では受講生・塾生と一緒に走ってトレーニングしています。
スポーツ以外には、気のおけない仲間達とポーカーを楽しんでいます。
一時期は、年に何度もラスベガス遠征していたほどです。

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